和宮 家茂 仲良し
皇女が皇族以外の男性に嫁ぐことを今回は、和宮の人となりや家茂との仲、大奥での生活についてご紹介します。和宮降嫁は、幕府が打ち出した公武合体とは、朝廷と幕府の絆を強めることで両者の対立を解消し、政治体制を安定させようという構想のことです。黒船が来航した当時、国内では海外貿易について意見が割れていました。しかし幕府は朝廷の承諾なしに日米修好通商条約に調印、そのため尊王攘夷派志士たちの反発を招き、朝廷との関係も悪化してしまいます。当時の幕府は弱体化しており、幕藩体制の立て直しや権威回復、尊王攘夷派勢力の非難から逃れたいという思惑がありました。そこで発案されたのが公武合体だったのです。関連記事:和宮は、弘化3年(1846)に仁孝天皇の第八皇女として京都御所の橋本邸で産まれました。異母兄である幕府から申し出があった和宮降嫁ですが、孝明天皇は当初この話を断っています。許嫁がいるのだから当然のことですよね。しかし度重なる要請と侍従・和宮はこの話を辞退しましたが、既に幕府と約束していた孝明天皇から「ならば生まれたばかりの1歳の寿万宮(すまのみや)を降嫁させる。私は責任をとって譲位し、和宮も林丘寺で尼にならなければならない」と説得され、降嫁を受け入れました。和宮は降嫁にあたってさまざまな条件を出していますが、結婚か尼かという理不尽な二者択一を迫られた彼女にとって、これは当然のことだったのかもしれません。孝明天皇も「和宮の条件を遵守するように」と幕府側に告げています。政略結婚に泣く泣く同意した和宮ですが、夫婦仲は良かったといわれています。結婚当時の家茂は十代半ばの若者でしたが、優しく誠実な人柄で、贈り物をしたり手紙を送ったりと和宮を気遣っていたそうです。そんな家茂に和宮もだんだんと心惹かれていったのでしょう。将軍といえば側室がつきものですが、家茂は生涯側室をもちませんでした。和宮を一途に愛したとは心温まるエピソードですね。 和宮の降嫁が決定した頃、世間では「幕府は和宮を人質にして天皇に譲位させるつもりだろう」という噂が流れていました。これに対し家茂は、和宮降嫁に関して二心はないと朝廷に誓紙を提出しています。これは和宮を妻として大切にするという誓いでもありました。また長州征伐に出向く際、家茂は和宮に「凱旋の土産はなにがいいか」と聞いています。家茂はこの遠征中に病死してしまいますが、和宮が欲しがった西陣織は約束通り彼女の元に届いたといいます。戦いの最中でも妻へのプレゼントを忘れないところに、和宮への深い愛を感じますよね。「空蝉の唐織り衣なにかせん 綾も錦も君ありてこそ」この時の西陣織はのちに袈裟に仕立てられ、現在でも「空蝉の袈裟」として伝わっています。文久3年(1863)家茂は上洛のため江戸を出ました。この際、和宮は夫の無事を祈ってお百度参りをしています。同年に再び上洛の要請があったときもお百度参りをしていますので、よほど家茂が心配だったのでしょう。和宮は朝廷に対し、用が済んだら速やかに将軍を江戸に帰還させるよう願い出ています。また、上洛の際に海路で行くことを聞くと、陸路に変更するよう進言したこともあるようです。和宮にとって家茂がどれだけ大切な存在だったかがよくわかりますね。結婚に関して紆余曲折あった和宮ですが、夫・家茂との結婚生活はわずか4年と短いものでした。同年末には兄の孝明天皇も崩御し、前年には生母も亡くなっています。大切な人々を次々と失った和宮の悲しみは、想像を絶するものだったのでしょう。家茂が亡くなり慶喜が将軍になりますが、時代の流れは倒幕へと向かっていきます。そんな中、残された和宮は徳川家の人間として江戸城の無血開城に力を尽くしました。彼女がこの事態に凛と立ち向かうことができたのは、亡き家茂との絆があったからかもしれませんね。家茂との関係は良好だった和宮ですが、大奥にはなかなか馴染めずつらい思いをしたようです。和宮が大奥に入ったのは、江戸に到着してから1カ月ほど経った後のことでした。和宮降嫁にはいろいろな条件がありましたが、その一つに「御所風の暮らし」があります。この調整が難航したため時間がかかってしまったのです。大奥での和宮の暮らしは、側近・庭田嗣子の書状によって明らかにされました。それによると、御所風の暮らしはほとんど遵守されておらず、部屋は狭くて暗く、また、大奥の女性たちと反りが合わず和宮が泣いたこともあったようです。大奥を仕切っていた先代の将軍・家定の正室である天璋院は、次期将軍として慶喜を推すよう命令を受けていたものの、最終的には家茂を担ぎました。どうやら家茂のことを息子のように可愛がっていたようで、上洛の際にもかなり身を案じています。そんな家茂の妻としてやってきた和宮ですから、嫁姑に似た関係性があったのでしょう。婚儀の際に、和宮の地位が高いことにより、将軍が頭を下げるという異例のパターンになったことも気に入らなかったのかもしれません。しかし明治維新後は和解し、一緒に食事や観劇をしたようです。当初は険悪だった二人ですが、徳川家存続の危機に陥ったときは共に奔走したこともあり、最後には「同じ徳川に嫁いだ女性」という絆が生まれたのかもしれませんね。和宮は32歳という若さでその生涯を終え、遺言により家茂の隣に葬られました。後年の調査によれば、和宮の棺には家茂とみられる男性が映ったガラス片が入っていたそうです。政略結婚とはいえ仲睦まじかった家茂と和宮。今も二人で安らかに眠っているのです。 関連記事: 1862年、幕府・朝廷・有力藩が三者一体となって欧米列強に対抗するという公武合体の一環として、孝明天皇の妹である和宮を家茂は正室に迎えます。. 1861(文久元)年、中仙道を豪壮な行列が江戸に向かって進んでいました。行列の長さは50キロ、人数は3万人にも及んだと言われています。この行列は、 この婚姻が、のちに徳川家を救う大きな要因になるとは誰も思っていませんでした。今回は、皇女・和宮と徳川家茂の愛について、ご紹介いたします。 ペリー来航以来、日本の政治は大きな混乱に陥っていました。その原因は、江戸幕府と朝廷の対立です。さらに、井伊直弼のやり方に異を唱える反対派を直弼は弾圧しました。 こうした経緯を受け、朝廷と幕府の関係は冷え込んでしまいます。この状況を改善するために、井伊直弼らは和宮を家茂の正室に迎えようと考えました。 孝明天皇は最初渋っていたものの、1860(万延元)年3月、井伊直弼が暗殺されるなど、国内がさらなる混乱に陥っていく中で、国の行く末を考え、「朝廷と幕府の間の関係強化(公武合体)が必要だ」と和宮を家茂に降嫁させることを決断します。この時、和宮にはしかし、和宮は熾仁親王と別れ、京都から遠く離れた江戸に向かうことになったのです。和宮14歳のことでした。 和宮は、江戸に向かうことに恐怖を感じていました。と、言うのも、京都の皇族や公家の認識では、関東は武士という荒くれ者の土地であり、さらに、異人たちが跋扈する地だというものでした。そのため、和宮は京都を出る際 死を覚悟して江戸に入った和宮ですが、迎えた夫の家茂は和宮に優しく接しました。家茂は和宮が心細いだろうと配慮し、慣例を破って京都風の生活を許したり、たびたび手紙や贈り物をしたりと気を配りました。 そうした配慮や心の優しさを感じ、和宮は家茂に心を次第に許していきました。結婚当時、家茂は16歳。年も近く、話もしやすかったこともあるのでしょう。やがて、二人の心は通じ合っていきました。二人はお菓子が好きだったので、二人で甘いものを食べることもあったようです。頑なだった和宮も、次第に家茂に心を開いていきました。 家茂は、その後、上洛し、義兄の孝明天皇に拝謁します。孝明天皇も家茂に好感を抱き、ともに国難にあたろうと話します。ここにおいて、公武合体はなったかに思われました。 しかし、激動の時代は、夫婦仲良く過ごすことを許してはくれませんでした。長州藩が攘夷決行や内戦を起こしたため、幕府は長州征伐の軍を起こします。一度は、屈服した長州藩でしたが、再び力をつけ、再度幕府と対立を深めていきます。 1865(慶応元)年、幕府は再び長州を征伐するために軍を起こし、将軍である家茂も出陣することになりました。この征伐に家茂は乗り気ではなかったと言われています。また、家茂は体があまり丈夫ではありませんでした。 和宮は家茂を心配しますが、将軍である家茂が出ないことには幕府軍の士気があがりません。家茂は、和宮に「帰ってきたときの土産は何がよいか」と聞き、和宮は「京都の西陣織がいい」と応えました。このお土産の約束を交わして、家茂は上方に出陣していきました。 上方からも度々、家茂は近況や和宮を気遣う文や贈り物などを届けました。和宮は、家茂の手紙や贈り物を喜びながら、家茂の帰りを待ちわびていました。 しかし、江戸で待つ和宮の許に家茂が体調を崩したという知らせが入ります。和宮は家茂の身を案じ、医師を大坂に向かわせ、寺で平癒祈願も行います。 ところが、その甲斐もなく、家茂はその知らせが送り主は、亡き夫である家茂でした。中身は、家茂が和宮に約束した西陣織でした。自分が死ぬ数日前に、和宮を心配する文とともに届けさせた品でした。  和宮は、愛する夫の形見となった西陣織を歌一首とともに増上寺に奉納しました。その歌とは、しかし、時代はさらなる試練を和宮に与えるのです。 家茂を信頼したその後、朝廷は幕府との関係を解消します。1868(慶応4)年1月に始まったその倒幕軍の総大将は、かつての和宮の婚約者 和宮にとっては、実家とかつての婚約者が、嫁ぎ先を滅ぼしに攻めてくることになったのです。 ここから、和宮の戦いが始まりました。 和宮は各藩や朝廷の有力者に向けて、「徳川家に朝廷と戦う意思はないこと」「もし戦うならば、自分と徳川家と運命をともにすること」を伝える手紙を連日書き続けました。江戸を攻めて和宮を死に追いやったら、討幕派が掲げる尊皇の旗印はただの飾りであったことになる、それを避けるはずという一点に賭けたのです。 1868(慶応4)3月、討幕軍は江戸に入りました。そして、和宮の想いは通じ、やがて徳川家の存続も決まりました。和宮の想いが、徳川家を守ることにつながったのです。 和宮は、戊辰戦争後、父である仁孝天皇陵に参拝したりと、静かに過ごし、1877(明治10)年9月、療養中の箱根で亡くなりました。その遺言は、「夫の傍に葬って欲しい」というものでした。 政略に翻弄されながらも、家茂と出会い、優しい夫との愛を育んだ和宮。その遺言通り、和宮は増上寺の家茂の墓の隣に葬られ、二人は動乱の時代では過ごすことができなかった静かな時を過ごしています。 れきし上の人物.comサイト管理人。元々はかなりの歴史オンチ。今では歴史にハマってしまい、城巡りとかしちゃってる。よかったらフォローしてってください。