奨励会 退会 その後

中国の封建王朝は易姓革命(※)によって治める君主の姓が何度も代わったが、それと同時に王朝名(国号)も改められた。現在では、当時の国々が使用し...  家康公の祖父である松平清康は、永正 8年(1511)、三河安祥城(愛知県安城市)で生まれた... 上四郡 新進棋士 奨励会 ... 「まあその方が結果としてみんなにいいのかもね」 という感想が出るくらいが関の山で .

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前回は、藤井聡太少年の物語の第一回目として、子供の頃から研修会を卒業し、奨励会に入会するまでをまとめました。この第二回では、藤井聡太少年の奨励会時代の歩みをまとめます。①プロの将棋指し、いわゆる「棋士」になるには、日本将棋連盟のプロ棋士養成機関である「新進棋士奨励会」(一般には単に「奨励会」と呼ばれる事が多い)に入会するのが第一歩です。奨励会は、関東奨励会と関西奨励会の2つに分かれており、二段まではそれぞれの奨励会の中で対局します。なお、現在は、東京・大阪・名古屋・福岡の4ヶ所に、奨励会の下部組織としての「研修会」があり、小学生の頃に研修会に入って、そこからプロを目指す、というのが一般的になっています。②対局は、関東奨励会・関東研修会が将棋会館(東京都渋谷区千駄ヶ谷)、関西奨励会・関西研修会が関西将棋会館(大阪市福島区)で行われます。そして、東海研修会の対局は、名古屋市中区の板谷将棋記念室で、九州研修会の対局は福岡市中央区の電気ビル・共創館で行われます。③奨励会は7級から三段までで構成されています(以前は「奨励会初等科」として、下は10級までありました)。二段までは、関東・関西にそれぞれ分かれて奨励会員同士で対局を行い、段級位に差がある場合は駒落ちで対局します。表1に示された規定の成績を収めた時に昇段・昇級することができます。④1日の対局数は、級位者は3局(持ち時間は60分)、段位者は2局(持ち時間は90分)です。昇級昇段規定は表1の通りですが、逆に、2勝8敗の不成績だと「B」に落ちます。「B」の時に3勝3敗で「A」に復帰できますが、再度、2勝8敗ですと、降級または降段となります。また、「B」の時に、表1の成績を上げても、昇級昇段はできません。⑤なお、満21歳(2002年度以前の奨励会試験合格者においては満23歳)の誕生日までに初段、に昇段できなかった者は退会となります。⑥三段に上がりますと、関東・関西合同のリーグ戦(いわゆる「三段リーグ」)で三段同士のみが対戦します。現在の三段リーグは、年に2回(4月から9月までと、10月から3月まで)開催され、各回毎の成績上位2名だけが四段昇段(プロ入り)となります。つまり、プロ入りできるのは、年に4人だけという狭き門なのです。(三段リーグについては、項目を改めて解説します)。2012年(平成24年)9月22日、小学4年生の聡太少年は、10歳2ヶ月で奨励会の入会試験に合格し、6級で奨励会に入会します。こうして、聡太少年のプロへの第一歩が始まりました。奨励会に入った聡太少年は、師匠の杉本七段と初めて「平手の将棋」を指しました。聡太少年と同時期に入門したもう一人の弟子との二面指し(杉本七段が二面の将棋盤を使って二局同時に指す事)でしたが、聡太少年が勝ちました。聡太少年はとくに嬉しそうでもなかったそうですが、もう一度、平手で対局したら、今度は負けてしまいました。すると、ものすごく口惜しがったそうです。普通は、師匠に勝ったら大喜び、負けてもとくには悔しがらない、と思うのですが、聡太少年は、その逆だったのです。この頃から、聡太少年は、まさに「神の子」としての片鱗を示し始めていたのでしょう。聡太少年が、奨励会に入会してから初段に昇段するまでの戦績をまとめて右下の表2に示します。①奨励会の例会は月に2回、午前9時から始まります。そして、級位者は一日に3局、段位者は一日に2局、対局します。瀬戸市に住む聡太少年は、母親の裕子さんに連れられて、片道2時間半かけて関西将棋会館に通いました。対局は、朝10時に始まりますから、母親はそれに間に合うように、朝4時に起きて朝食を準備し、7時前には聡太少年を連れて出かけます。対局が終わるのは、早くても夕方の6時頃、遅い場合には7時を過ぎます。従って、家に戻るのは夜の10時頃です。また、聡太少年の対局中は、母親(時には父親)は、どこかで時間をつぶさなければなりません。こうした献身的な行動は、聡太少年が「三段リーグ」に上がるまで続けられたのです。注: 以前の例会は、平日でしたが、現在は土日か祝日に行われているそうです。学校に通学している奨励会員が多い事を配慮したからです。昔は、「学業より将棋優先」という考えがまかり通っていたのですが、今は、「学業と将棋を両立させる」、という考え方に変わったようです。②聡太少年は、2012年9月22日、10歳2ヶ月で小学校4年生の時、6級で奨励会に入りました。初日に3連勝するという好成績でスタートが切れて、これが自信につながったようです。その後も順調に勝ち星を重ね、右の表1に示すように、2ヶ月経たない間に、「9勝2敗」となって、昇級基準を満たし、11月10日には5級に昇級しました。③5級に昇級してから、聡太少年の快進撃が若干鈍ります。2連敗が4回もあって、なかなか昇級基準を満たせませんでした。奨励会で1勝2敗で終わった日には機嫌が悪く、帰りの新幹線では一言も口をきかなかった事もあったそうです。しかし、2013年5月5日、10歳9ヶ月で小学校5年生の時、昇級基準の「9勝3敗」を達成することが出来て、4級に昇級しました。④4級では圧倒的な強さを発揮して、6連勝を達成し、1カ月未満で(6月3日)3級に昇級しました。⑤ところが、3級になってから、快進撃がぴたりと止まり、6連敗を喫して、2勝8敗となり、「B」に落ちてしまいます。6連敗を喫した日には、将棋会館を出た途端、わっと泣き出してしまったそうです。聡太少年の今まで(2018年3月末日まで)の戦績で、この時の6連敗がワースト記録です。しかし、そこから、3連勝して「A」に戻ると、その後6連勝で2級への昇級を果たします。⑥2013年9月15日、11歳1ヶ月で小学5年生で2級に昇級した聡太少年ですが、ここから1級に昇級するのに、最長の6ヶ月がかかってしまいました。2連敗を4回繰り返し、3連勝以上がなかなかできませんでした。しかし、半年後の2014年3月17日、小学校5年生の最後の月に9勝3敗を達成し、1級に昇級する事が出来ました。⑦1級では、初戦に勝った後に連敗しますが、そこからは順調に勝ち進んで、2014年6月21日、11歳10ヶ月で小学校6年の時に、12勝3敗となり、初段に昇段する事が出来ました。これは、初段昇級の史上最年少記録です。同じ昇進でも、級と段では重みが違い、とくに、初段に昇段する事を「入品(にゅうほん)」と呼んで記念するそうです。藤井も嬉しかったようで、翌年の卒業アルバムに以下のように書いています:『ぼくは奨励会の初段になった。四段になればプロ棋士だ。近いように聞こえるが、上に行くほど厳しくなる世界だ。一つの負けで一気に昇段が遠のいてしまう事もある。(中略)将棋史に名を残す棋士になるためには、日々精進して行きたいと思っている』⑧聡太少年は、奨励会の例会日には午前4時半に起きて、母親と一緒に関西将棋会館に向かいました。10時前に将棋会館に到着すると、母親は階段を上がっていく藤井を見送り、2階の道場の脇にあるベンチでいつも待っていたそうです。対局の合間や休憩時間があっても、親子が顔を合わせる事はありませんでした。奨励会の例会が終わると、聡太少年は階段で2階まで降りてきます。母親の裕子さんは、その時が最も緊張したそうで、表情でだいたいの成績がわかったそうです。⑨聡太少年は、前回のコラムでも紹介したように、指し将棋ばかりでなく、詰将棋でも天才ぶりを発揮しました。奨励会で初段に昇段するまでの間も、詰将棋分野で華々しい活躍をしています。2014年3月30日、まだ11歳7ヶ月、小学校5年生で参加した第11回詰将棋解答選手権に於いて関係者に大きな衝撃を与えます。第一ラウンドが終わった時点で満点が二人いました。二人とも、持ち時間90分のうちわずか20分しか使わないで全問正解したのです。そのうちの一人が聡太少年だったのです。この時、出題者側だった北浜健介七段は、「藤井少年は天才ですか?」という質問に対して、間髪を入れずに真顔で、「ええ、天才です」と答えたそうです。プロにここまで言わせた聡太少年も、第二ラウンドでは、残念ながら失速して、全体で23位という成績で終わってしまいました。聡太少年が、奨励会に入会してから、初段に到達するまでが、1年と9カ月、他の棋士と比べた時、最短とはいえませんが、かなりスピードです(他棋士との比較は項目を改めてまとめます)。初段から、プロ棋士への最後の関門である「三段リーグ」入りを目指す戦いが本格化していきます。聡太少年の初段から三段までの戦績を左下の表3にまとめて示します。① 2014年6月21日、11歳10ヶ月、小学校6年で、聡太少年は初段に昇段しましたが、ここから二段になるまでの道のりは、かなり大変でした。立ち上がりから、勝ったり負けたりを3回繰り返した後、3連敗を2度繰り返し、14戦までの対戦成績は5勝9敗で、とても天才と呼べるような成績とは言えませんでした。この時は、3級時代の6連敗に続き、2度目の壁にぶつかった時期かもしれません。師匠の杉本七段も、この時を振り返り、「藤井が唯一少し苦しい思いをしたのはあの時期だったかもしれません」と語っています。②しかし、第14戦から、聡太少年は見事に立ち直り、12勝4敗となって、昇段基準を満たし、2015年2月28日に二段に昇段しました。この時、聡太少年は12歳7ヶ月で小学校6年生、史上最年少の二段誕生でした。③二段になった時も、かなり厳しい状態からのスタートでした。連敗から始まり、10戦までの間に、3連敗もあって、3勝7敗という惨憺たる成績でした。しかし、初段の時と同じく、その後、見事に立ち直ります。第11戦からは好成績に転じ、第14戦からは6連勝して、第13戦からは12勝5敗まで持ち直しました。その次に行われた例会(2015年8月2日)で2連勝すれば、三段に昇段できた(直近の19戦で14勝5敗となって、昇段基準を満たす)のですが、そこで三段編入試験を受けていた城間春樹アマと対戦して敗れ、1勝1敗となって昇段の機会を逃してしまいます。注: 三段編入試験とは、アマチュア強豪棋士のために設けられた特例試験です。詳しくは第4項の⑤で解説します。なお、城間アマは聡太少年には勝ちましたが、通算では合格ラインに達することが出来ず、三段リーグには入れませんでした。アマチュアが、三段リーグ入りする、とはそれだけ強固な壁なのです。④聡太少年は、その敗戦にめげることなく、その後、3連勝して、直近の19戦で14勝5敗となり、2015年10月18日、13歳2ヶ月、中学1年生で見事に三段に昇段しました。この昇段記録は、史上最年少です。しかし、三段に昇段したのが10月18日だったために、すでに後期の三段リーグ(10月1日から翌年の3月31日まで)が始まったばかりであり、次の三段リーグが始まる来年の4月まで、約半年間、実戦の機会が無くなりました。実戦を戦えないことで、勝負勘が鈍る事を恐れた師匠の杉本七段は、この時、自らが対戦相手となるとともに、知り合いの棋士に頼んで武者修行の対戦を企画します。この詳細については、次項以降でまとめます。⑤聡太少年が、奨励会に入会してから、三段リーグに上がるまでの戦績を右の表4にまとめて示します。通算成績は、118勝69敗、勝率63.1%、経過期間は37ヶ月、ほぼ3年で三段リーグ入りを果たしました。5級時代と2級時代に苦しい思いをしましたが、それも、今にして思えば、実力を蓄えるための雌伏期間であった、と思えてきます。⑥なお、母親の裕子さんは、聡太少年が小学校6年生の時、名古屋大学教育学部付属中学の受験を勧めました。この学校は、名古屋市内にあるので瀬戸市の自宅からの通学には少し時間がかかりますが、中高一貫校なので、高校受験の心配をしなくても済む、と考えたからでしょう。聡太少年は、母親の勧めに従って、名古屋大学教育学部付属中学を受験し、合格して、そこへ通学する事になりました。そして、母親の付き添いは、聡太少年が中学生になったのを機に終わりになりました。2012年9月から2015年3月までの2年半、息子と一緒に続いた関西将棋会館への往復が終わった時、お母さんはどんな感慨を抱いたのでしょうか? 聡太少年は、中学生になってからは、時には関西将棋会館で泊まる事もあったそうですが、いろいろと忘れ物をしたりしてお母さんを困らせたそうです。生活力は極めて低い、と言うのが母親の聡太少年への評価だそうです。⑦ここで、聡太少年の詰将棋での画期的な成績を紹介します。2015年3月29日、聡太少年は第12回詰将棋解答選手権のチャンピオン戦に参加しました。12歳7ヶ月、奨励会二段、小学校6年生(中学生になる直前)の時です。そして、第一ラウンド・第二ラウンドを通じて、ただ一人全問正解という離れ業で堂々の優勝を飾ったのです。小学生が、並み居るプロを押しのけて、ただ一人、満点で優勝したというニュースは、まさに「大事件」として報道されました。史上最年少での優勝です。この時、聡太少年は、下記するごとく、とても小学生が書いたとは思えないような優勝記を寄せています:『第一ラウンドで満点だったことは望外で、また満点が一人だということは本当に驚いた』ここで使われている「望外」という言葉は、将棋界では謙遜を表す常套句だそうですが、それを小学校6年生が使った、という事で、世間はまた驚きました。⑧聡太少年は、小学校の卒業文集で以下のように記しています:『三段になると、東西合わせてのリーグ戦となる。半年かけてリーグを行い、その中で二人しか昇段できない難関だ。しかし、その壁を破らなければ未来はない。奨励会に入ったからにはプロになるしかないのだ。「中学生の内になれなかったら相撲部屋」と母に(冗談で)言われたことがあったが、その覚悟で行きたいと思う。後3年だ。全力を尽くしたい。そして、三十才までに将棋界の横綱になりたい。将棋史に名を残す棋士になるために、日々精進してゆきたいと思っている』これだけの覚悟を持って小学校を卒業する子供が、はたしてどれくらいいるでしょうか? 驚かざるをえません。現在の三段リーグは1987年(昭和62年)から始まりましたが、想像を絶する厳しい世界であり、「鬼の住処」とも言われています。将棋の世界では、三段と四段とでは、天と地の開きがあります。三段までは、ただの棋士であり収入はありません。しかし、四段になると、プロとして認められ、対局料等の収入が入って、生活が成り立つようになります。したがって、三段リーグを勝ち上がって四段になるために、まさに命を削る戦いがあるわけです。この「三段リーグ」について、ここで解説するとともに、三段リーグの変遷についてもまとめます。①関東奨励会・関西奨励会合わせて30名前後の三段がいて、半年間で、抽選で決まる相手とのべ18局戦い、成績上位の2名だけが、四段に昇段して、順位戦C級2組に入り、プロ棋士として登録されます。成績が同じ場合は、前回までの成績で決められた順位の上位者が四段に上がります。なお、3位の者には次点が与えられ、1997年以降に次点を2回獲得したものは、フリークラスの四段に昇段する権利を得ます。この権利は放棄することもできて、現在名人の佐藤天彦は16歳当時に次点2回を獲得したにもかかわらず権利を放棄して三段リーグに留まり、その後18歳で2位となって昇段を果たしました。注: フリークラスとは、日本将棋連盟で順位戦以外の棋戦に参加できるクラスの事で、宣言による場合、成績不良でC級2組から降級する場合、三段リーグで次点(3位)を2回取った場合、のいずれかで、フリークラスに所属する事になります。そして、以下のうち一つを満たした場合、フリークラスからC級2組へ昇級できます。1.年間(4月1日から翌年の3月31日まで)の対局成績で、「参加棋戦数+8」勝以上の成績を挙げ、なおかつ勝率6割以上2.良い所取りで、30局以上の勝率が6割5分以上。3.年間対局数が「(参加棋戦+1)×3」局以上。ただし、同じ棋戦で同一年度に2度(当期と次期)対局のある場合も1棋戦として数える。4.全棋士参加棋戦優勝、タイトル戦(朝日オープン将棋選手権含む)挑戦。②三段リーグ戦での勝率が2割5分以下(18戦で4勝以下)であると降段点がつき、次期も続けて降段点を取ると二段へ降段となります。。③奨励会の発足時、年齢制限はありませんでしたが、1968年に「満31歳の誕生日までに四段に昇段できなければ奨励会を退会」 という規定が設けられ、その後、1982年に満26歳に引き下げられました。そして、1994年に次の延長規定が追加されて現在に至っています。1.満21歳の誕生日までに初段、満26歳の誕生日を迎える三段リーグ終了までに四段に昇段できなかった者は退会となる。2.ただし三段リーグで勝ち越しを続ければ満29歳を迎えるリーグ終了まで延長して在籍できる。3.年齢・勝ち越し条件に関係なく三段リーグに5期(2年半)在籍できる。④三段リーグの制度は、下記の変遷を経て、現在に至っています。1.1955年度(昭和30年度)までは成績により四段になっていましたが、当時の将棋連盟の財政事情により昇段者を調整するために、三段リーグが作られました。当時は「予備クラス」(1956 – 61年度)、「奨励会A組」(1962 – 73年度)と呼ばれていました。2.1956年度(昭和31年度)から1958年度(昭和33年度)までは関東、関西の三段が総当りで対局を行い1位になった棋士が昇段しました。当時は関西奨励会の三段棋士が少なかったこともあり、上京して参加しました。3.1959年度(昭和34年度)から1973年度(昭和48年度)までは、半年ごとに東西の三段による総当たりのリーグ戦が行われ、東西リーグ1位の者による東西決戦で昇段者を決定していました(東西リーグの人数を均等に調整するために、人数の多い方の三段棋士が少ない方に回り、東西リーグの人数を均等にしていました)。4.1969年度(昭和44年度)までは前期の東西決戦敗者がリーグ1位となった場合、東西決戦は行われず両者ともに昇段となりました。また1962年度(昭和37年度)から1968年度(昭和43年度)までは前期・後期の東西決戦の敗者同士の決戦が行われ、この勝者も昇段できました。5.1974年度(昭和49年度)から1986年度(昭和61年度)までは三段リーグがなく、二段以下と同じような昇段規定(9連勝または良いとこ取りで13勝4敗で四段昇段)で、四段への昇段が決まりました。この時期は、最も容易に四段に昇段できた時期であり、谷川浩司や羽生善治は、この時期に四段に昇段しました。(谷川浩司は1976年(昭和51年)12月20日に、羽生善治は1985年(昭和60年)12月18日に四段に昇段しました)。⑤三段リーグに入るためには、奨励会の二段から昇段するほかに、2007年度より創設された以下の三段編入試験に合格すれば三段リーグに入る事が出来ます。1)受験資格: 過去1年の6つのアマチュア全国大会(アマ竜王、アマ名人、朝日アマ名人、アマ王将、赤旗名人、支部名人)のいずれかの優勝者で、四段以上のプロ棋士(日本将棋連盟正会員)から奨励会受験の推薦を得た者であること。優勝1回に付き1回受験する事ができます。2)試験の対局は、4月編入(申込締切前年12月末)の場合は2 – 3月、10月編入(申込締切6月末)の場合は8 – 9月の奨励会例会において行われます。3)(受験者を二段扱いとして)奨励会二段(場合により初段も含む)と最大8局対局し6勝で三段に編入されます。ただし、3敗した時点で不合格となり試験は打ち切りとなります。4)三段リーグ編入試験に合格した者は、年齢に関係なく三段リーグに最長2年間(4期)参加できますが、この間に四段になれなければ退会となります。5)三段リーグ在籍中に二段降級となった場合は退会となります。6)なお、この特例制度で四段になれたのは今泉健司四段だけです。①聡太少年は、前述のごとく、2015年10月18日の例会で2連勝して直近の通算成績が14勝5敗となり、13歳2ヶ月、中学1年生の秋に三段に昇段しました。そして、翌年の4月から始まる「三段リーグ」に参加する事が決まりました。もし、前回の例会で、連勝していれば、9月末日までに三段に昇段して、すでに10月1日から始まっていた「三段リーグ」に参加できたわけですが、一寸した運命のいたずらで、三段リーグへの参加が半年近く遅れました。このため、翌年の4月まで将棋の対局が出来ないという「空白の6ヶ月間」が生まれたわけです。②聡太少年が、城間アマに敗れて10月からの三段リーグに参加できなくなった時、師匠の杉本七段は「意外と強運の持ち主でもないんだな」と思ったそうです。ところが、この「空白の6ヶ月間」で実力を磨いたことが、結果として、三段リーグの一期抜け、という快挙につながり、プロ入り初戦が「神武以来の天才」と謳われた伝説の棋士加藤一二三九段と対戦、というドラマでも思いつかないような奇跡的な巡り合わせを生んでいくわけですから、聡太少年は「強運の持ち主」と言えると思います。③藤井の三段リーグが始まる1ヶ月前の2016年3月、師匠の杉本七段は春休み中の聡太少年を連れて東京へ向かい、二泊三日の旅に出ました。この旅行の目的は「武者修行」でした。東京の若手やベテラン棋士と実戦を重ねる事で、半年近く奨励会で将棋を指せなかった聡太少年に、真剣勝負の機会を与えようと思ったわけです。対戦相手は、「噂の藤井少年というのはどの位のものか」試してみたい、という気持ちもあったでしょうが、聡太少年にとっては、自分より格上の相手の胸を借りる絶好の機会でした。注: 聡太少年は、史上最年少で、初段、二段、三段と昇段しただけでなく、詰将棋解答選手権でも、一流のプロ棋士を押しのけて優勝しており、大いに注目を集めていました。④この三日間の武者修行で、島朗・森下卓・中村修といったベテランや石井健太郎・増田康宏・中村大地・八代弥・梶浦宏孝・高見泰地・村山慈明・飯島栄治といった中堅・若手と一緒に研究会を重ね、10局以上の対局を行うことが出来ました。対戦成績は、聡太少年の大幅な負け越しで、帰りの電車の中では「ちょっといかんな」と言った面持ちだったそうですが、この敗戦が大きな財産になったと思われます。⑤三段リーグが始まる直前の2016年3月27日、聡太少年は、第13回詰将棋解答選手権チャンピオン戦に参加して、連続優勝を成し遂げ、将棋界に前回をも上回る衝撃を与えました。第一ラウンドは制限時間90分、ところが開始からわずか20分で、聡太少年が部屋を退出したのです。最初、関係者は、トイレか体調不良か、何かハプニングが起きたのかと訝ったそうですが、全問を回答したので退出した、という事を知って、驚きました。制限時間90分以内に全問回答した参加者は聡太少年を含めて6名いましたが、二番目に早かった人で54分ですから、聡太少年がいかに早かったかがわかると思います。なお、第一ラウンドの全問正解者は、わずか7名でした。⑥聡太少年は、2連覇しましたが、それほど嬉しそうではありませんでした。というのも、第2ラウンドの最終問題が難問中の難問で、正解にたどり着く事が出来なかったからです。聡太少年にとっては、優勝する事よりも全問正解する事の方が大切だったのです。こうした事を知った、詰将棋界の天才「若島正」さんは、「もう、彼に関しては何があっても驚かないようにしています」と言っているそうです。①2016年(平成28年)4月から始まる第59回三段リーグには29人が参加しました。この中から成績上位の2名だけが四段に昇段して、プロの仲間入りができます。もし、成績が同じ時は、「順位」の上の者が昇段し、下の者は昇段できません。聡太少年は、前年の10月にリーグ入りしたばかりですから、順位は27位とずっと下位でした。したがって、聡太少年が四段に昇段するためには、同成績者がいない状態で2位までの成績を上げる事が必要でした。だから、聡太少年が、一期で昇段できる、と思っていた関係者はほとんどいませんでした。②聡太少年と共に、注目されていたのは二人の女性でした。一人は里見香奈、2008年に17歳で女流名人となり、2013年には史上初の女流五冠となるなど、女流棋界の第一人者です。一方、奨励会にも所属し、2014年からは三段リーグで戦っています。もう一人は、西山朋佳、女流棋士にはならずに14歳で奨励会入りした初の女性です。もし、二人のいずれかが四段に昇段できれば、「女流」棋士とは異なり、初の女性プロ棋士が誕生する事になります。聡太少年は13局目で里見と、最終18局で西山と当たる事になっていました。③2016年(平成28年)4月23日、関西将棋会館で聡太少年の三段リーグが始まりました。1日に二局行われますが、聡太少年の初日の成績は、初戦は勝ちましたが、二戦目に敗れて1勝1敗の「指し分け」でした。三戦目から、五連勝しますが、八戦目で敗れ、通算で6勝2敗となりましたが、このあたりで、昇段を意識するようになってきたそうです(右の図1参照)。そして、こ頃から、先輩の千田翔太(現六段)のアドバイスに従って、コンピュータ将棋ソフトを使って研究するようになりました。④その後、第13局目で女流棋士の里見香奈三段を破り、9戦目から14戦まで(8月3日の8月第一第一例会まで)は4勝2敗と勝ち越しました。この結果、通算で、10勝4敗となって、甲斐日向三段と同率トップに並びました。⑤8月17日の8月第2例会では連勝して、9戦から16戦までを6勝2敗で乗り切り(右の図2参照)、通算で12勝4敗となって、単独トップに立ちました。なお、この日の初戦で、藤井三段に敗れた荒木隆三段は、最終成績が9勝9敗となって、年齢制限にかかり、奨励会を退会となりました。彼は現在、働きながら、将棋の普及活動に携わっているそうです。2016年9月3日、いよいよ三段リーグの最終日を迎えました。三段リーグの最終日は、東京将棋会館での一斉対局が恒例になっています。この時点で、昇段の可能性を持っていた棋士は右の表1の9人です。(表1の右端の「順位」は前期の三段リーグの成績に基づく順位です)。なお、第2位の「池永天志」は、すでに17局戦っていて、最終日には1局だけの対戦でした。①聡太少年は、最終日に連勝すれば、文句なく昇段できますが、連敗すれば「順位」が9人の中では最下位のため昇段は絶望的で、1勝1敗であれば、他の棋士の成績如何で昇段が出来るか否かが決まる、というきわどい状況でした。もし、昇段を決めれば、10月1日付で14歳2ヶ月での昇段となり、62年前の1954年(昭和29年)8月に加藤一二三九段が打ち立てた14歳7ヶ月を抜いて史上最年少の四段誕生記録となります。このため、この日の三段リーグには多くの取材陣が詰めかけました。②9月3日の初戦、聡太少年は、坂井信哉三段と対戦しました。坂井三段は、この時まで 7勝9敗、すでに昇段の可能性は消えていましたが、来期の事を考えると少しでも順位を上げておく必要があり、勝ちたいところです。この対戦は、坂井三段が勝ち、聡太少年の昇段の可能性は小さくなりました。③ところが、競争相手も次々と敗れたため、左の表2に示すように、17戦終了の時点で同率トップとなり、もし、最終戦で勝てば自力で昇段できる可能性が残りました。(成績順位3位の池永三段は、この時点で18局を戦ったために、12勝6敗が最終成績となりました)。④聡太少年の運命の最終局(第18戦目)の対戦相手は、西山朋佳三段です。西山三段は、17戦終了の時点で10勝7敗、昇段の可能性はありませんが、来期の順位を少しでも上げておくためには、この一戦を勝っておきたいところです。⑤この戦いは、聡太少年が勝利し、ついに、自力で四段昇段を決めました。難関の三段リーグを一期抜けして、62年ぶりに史上最年少記録を塗り替えたのです。将棋会館二階の研修室では、多くのマスコミを集めて、記者会見の場が設けられました。1)緊張した様子の聡太少年の第一声は、『昇段出来て素直に嬉しいです』。しかし、蚊の鳴くような声だったので、カメラのシャッター音にかき消されてしまいました。2)やがて落ち着いてくると、次のようにはっきりと語りました。『過去に中学生棋士になられた先生方は、本当に偉大な方ばかりです。自分はまだまだ実力が足りませんが、そこに並べるように頑張りたいと思います。そして、実力をもっとつけて、タイトルを取れる位置に行きたいです。名人というのは古くから続いていて、格式あるタイトルですので、それを取りたいという気持ちはあります』3)そして、憧れの棋士は、光速の寄せが代名詞の代名詞の谷川浩司九段。さらに、常にトップを走り続けている羽生先生とも対局したい、と述べました。最後に、『師匠の杉本先生(七段)に昇段の報告をしたら、「これからが本番なので、気を引き締めるように」、と言われました。ずっと支えてくれた家族には、一刻も早く報告したいです』、と述べて会見が終わりました。⑥この日、母親の裕子さんは、朝から緊張で落ち着けず、そわそわ、そわそわしていました。そして、昇段の知らせを聞いた途端、全身の力が抜けたそうです。師匠の杉本七段は、名古屋でイベントに参加しながら、状況をこまめにチェックしていました。聡太少年の昇段を知った時の状況は、正確には覚えていないとの事ですが、「おめでとう」と祝福したそうです。⑦第59回三段リーグの最終的な上位の結果は右の表3の通りです。難関の三段リーグを勝ち抜いて見事に昇段を果たしたのは、藤井三段と大橋三段の2名でした。成績順位2位は5名いましたが、前期の三段リーグの成績に基づく順位で1位だった大橋三段のみが昇段し、他の4名は、残念ながら昇段できませんでした。注1: 杉本和陽三段は次の第60回で昇段、池永天志三段は第62回で昇段しました。しかし、黒田尭之三段、出口若武三段は、今も三段リーグで苦闘しています。注2: 女性初のプロ入りを期待された里見香奈三段は、第62回でも昇段できず、年齢制限(25歳)のために、奨励会退会となってしまいました。女性初のプロ棋士が誕生するか否かは、西山朋佳三段の活躍にかかっています。⑧聡太少年の第59回三段リーグでの勝敗表は左の図3の通りです。際どい勝利でしたが、最後に勝って、三段リーグを一期で抜けました。⑨聡太少年の奨励会入会から三段リーグを抜けるまでの通算成績は、表4と表7からわかるように、131勝74敗、勝率63.9%、経過期間は、空白の6ヶ月を足しこんで、49ヶ月、4年強でプロ入りを果たしました。聡太少年は、10歳2ヶ月で奨励会入りして、14歳2ヶ月でプロ棋士になりました。つまり、4年かけてプロになったわけです。そこで、彼の奨励会での成績と昇段速度を他の有力棋士と比べてみましょう。まず最初に、現行の三段リーグが始まる前に四段に昇段した、二人の中学生棋士、谷川浩司と羽生善治の奨励会時代と比べてみます。二人の奨励会入りから、三段リーグを卒業するまでの成績を右下の表8にまとめて示します。なお。谷川浩司は、5級で奨励会入りしたので、6級の成績はありません。聡太少年の「期間」については、三段リーグが始まるまでの6ヶ月間を除きましたので、43ヶ月としました。なお、期間の単位は「月」です。①「期間」が最も短いのは、羽生善治で37.5ヶ月、実質3年間で奨励会を卒業し、プロ棋士になっています。奨励会入りしたのが12歳で、谷川や藤井と比べて遅かったのですが、その後のスピードが早く、史上3人目の中学生プロ棋士となれたわけです。また、奨励会時代の通算勝率も3人の中ではトップとなっています。これは、昇進スピードが速い事の裏返しの記録とも言えます。②初段になるまでの「期間」をみてみると、谷川が最も長く、とくに、3級から4級に上がるのに、10.5ヶ月もかかっています。3級時代の通算成績も負け越しており、谷川にとって、3級から2級に上がる時が最も苦しかった時期だった、と想像されます。③しかし、初段に上がってから、三段を突破するまでの「期間」を比べると、谷川が最短となっています。とくに、二段・三段の時には、最初に負けたものの、その後、勝ち進むことによって、あっという間に昇段基準(12勝4敗、あるいは、14勝5敗)をクリアしています。結果、初段に昇段してから、1年半も経たぬうちに、プロ棋士の仲間入りを果たし、史上二人目の中学生プロ棋士となりました④羽生の場合、初段に上がるまでは、1級の時にだけ、若干手間取りましたが、順調に昇級を続けました。しかし、初段に上がってからは、若干手間取りました。結果、四段に上がったのが15歳 3ヶ月で、3人の中で最も遅くなってしまいました。⑤聡太少年の場合、5級と2級時代に苦難の時期がありましたが、ほぼ順調に初段に上がり、その後は、羽生と同じくらいのペースで三段に上がりました。聡太少年の時には、谷川・羽生時代には無かった「三段リーグ」が設定されていて、四段に上がれるのは年に4人までという厳しい関門が設けられていました。しかし、聡太少年は、この関門を一期で抜けるという快挙を成し遂げて、14歳2か月という史上最年少の記録で、史上5人目の中学生プロ棋士となりました。⑥実質的には、ほとんど意味がないとも思われるのですが、参考のために、奨励会時代の通算成績を勝率で比べてみますと、右の表7の下から2行目に示すように、羽生がトップで、ここからも、羽生の凄さが見て取れます。1987年(昭和62年)から「三段リーグ」が始まりましたが、それ以降にプロ棋士となり、現在活躍中の中堅・若手棋士から以下のメンバーを抜き出し、聡太少年と比べてみます。1)屋敷伸之九段(46歳): 史上最年少(17歳10ヶ月)でタイトル戦に挑戦し、史上最年少(18歳6ヶ月)でタイトルを獲得しました。来期はB級1組に陥落しました。2)渡辺明棋王(33歳): 史上4人目の中学生プロ棋士。、永世竜王、永世棋王、という二つの永世資格をすでに持っていますが、来期はB級1組に陥落しました。3)佐藤天彦名人(30歳): 2期連続して名人位を守り、現在、羽生二冠(竜王・棋聖)と名人戦を戦っています。4)中村太一王座(29歳): 昨年、羽生を破って「王座」を奪取し、初めてのタイトル獲得に成功しました。現在、B級2組。5)豊島将之八段(27歳): 何度もタイトル戦に挑戦していますが、まだ運に恵まれずタイトル獲得には至りませんが、A級棋士として活躍しています。6)菅井竜也王位(25歳): 昨年、羽生を破って「王位」を奪取し、初めてのタイトル獲得に成功しました。現在B級1組。7)斎藤慎太郎七段(24歳): 昨年、棋聖戦で羽生棋聖に挑戦しましたが、敗れました。現在B1級で活躍しています。8)佐々木勇気六段(23歳): 藤井の連勝記録を止めた若手最大ホープです。現在C級1組。9)増田康弘五段(20歳): 昨年まで、藤井と二人だけの10代のプロ棋士でした。新人王戦で2連勝中の若手の期待の星です。藤井と同じく来期からC級1組。上記9人の棋士と聡太少年の、三段リーグに上がるまでの成績を比べたものを下の表9にまとめて示します。表9に記載されている年齢は、現在の年齢です。①期間: 全員が6級で奨励会入りしていますが、三段リーグに上がるまでの期間に相当のばらつきが見て取れます。最短は、屋敷伸之の27.5ヶ月(約2年と4カ月)、一方、最長は、豊島将之の54ヶ月(約4年半)。聡太少年は、3番目に短い37ヶ月で三段に上がっています。2番目は、中村太地の35.5時間です。しかし、経過期間の長さは、必ずしも、プロ入り後の成績とは関連が薄そうです。というのも、渡辺明は、ビリから2番目の51ヶ月(約4年と3ヶ月)かかりましたが、4人目の中学生プロ棋士となり、その後、竜王戦で大活躍しているのは、皆さん、ご存知の通りです。②足踏み時代: それぞれの棋士で違いはありますが、どこかの級位・段位で長く足踏みしている事が見て取れます。とくに、渡辺明の場合、1級から初段に上がるのに20ヶ月(2年半)もかかっています。渡辺の場合、6級から2級に上がるまではたったの7ヶ月でしたが、2級から1級に上がるのに9.5ヶ月かかり、その後、初段に上がるのに20ヶ月かかっています。年齢で見ると、11歳から13歳までが足踏み時代だったようです。他の棋士も、渡辺ほどではありませんが、下記するごとく、それぞれに足踏み時代が見て取れます。他の棋士と比べると、聡太少年の足踏み時代は標準的と言えるでしょう。1)屋敷伸之: 初段から二段に上がるのに7.5ヶ月かかっていますが、それほど長い足踏みではありません。。2)佐藤天彦: 1級から初段に上がるのに7.5ヶ月、初段から二段に上がるのに8.5ヶ月、それぞれかかっています。3)中村太地: 初段から二段に8ヶ月、二段から三段に8.5ヶ月、それぞれかかっています。4)豊島将之: 1級から初段に上がるのに16.5ヶ月かかっており、かなりの足踏み状態でした。5)菅井竜也: 初段から二段に上がるのに15ヶ月かかっており、これもかなりの足踏み状態と言えます。6)斎藤慎太郎: 2級から1級に8ヶ月、初段から二段に上がるのに9ヶ月、それぞれかかっています。7)佐々木勇気: 2級から1級に7.5ヶ月、二段から三段に上がるのに10.5ヶ月、それぞれかかっています。8)増田康弘: 1級から初段に上がるのに11.5ヶ月、二段から三段に上がるのに7ヶ月、それぞれかかっています。9)聡太少年の場合、3級時代に6連敗したりしましたが、足踏みと言えば、初段から二段までに7.5ヶ月、二段から三段までに8ヶ月、それぞれかかったことが該当するでしょう。③勝率: 最高勝率は、屋敷伸之の70.5%、最低勝率は豊島将之の57.1%です。ある意味、当然ですが、経過期間の長い棋士ほど勝率が悪くなっています。聡太少年の勝率は、経過期間と同じく3番目です。上記9人の棋士と聡太少年の、三段リーグでの成績を比べたものを下の表10にまとめて示します。「期間」の単位は『月』です。三段リーグは、半年ごとに行われるので、6ヶ月は、一期抜け(半年で四段に昇段)、12ヶ月は2期抜け(1年で四段に昇段)等々を意味します。①期間: 10人の棋士が三段リーグを抜けて四段に昇段するまでの期間には、以下の通り、ばらつきがみられます。1)一期抜け(半年で四段に昇段): 屋敷伸之と藤井聡太の二人だけが、6ヶ月間の一期だけで四段に昇段しました。2)二期抜け(1年で四段に昇段): 渡辺明は12ヶ月(1年)で(2期目に)、四段に昇段しました。3)四期(24ヶ月)(2年)で四段に昇段: 中村太地王座、菅井竜也王位、佐々木勇気の3人は、四段の昇段するまで2年かかっています。4)五期(30ヶ月)(2年半)で四段に昇段: 豊島将之、増田康弘の2名は、2年半かかってようやく四段に昇段しました。5)八期(48ヶ月)(4年)で四段に昇段: 佐藤天彦名人、斎藤慎太郎の2名は、三段リーグを抜けるのに、4年もかかっています。一期抜けした二人の8倍の年月がかかったわけであり、相当な苦労をしたものと推察されます。しかし、佐藤天彦の場合は、その苦労が実って、名人位を奪取したわけですから、苦労した甲斐があったと言えるのでしょう。②年齢: 三段リーグに入った年齢を比べると、最も若いのは藤井聡太で13歳、最も年長は16歳の3人(屋敷伸之、中村太地、菅井竜也)です。一方、四段に昇段した時の年齢を見ると、最も若いのは藤井聡太で14歳2ヶ月、次は渡辺明で15歳11ヶ月、この二人が中学生でプロ棋士となりました。なお、最も年長は斎藤慎太郎で18歳11ヶ月、次は佐藤天彦で18歳9ヶ月です。③勝率: 三段リーグの勝率トップは、屋敷伸之、次が藤井聡太で、この二人だけが勝率7割を超えています。勝率が最も悪いのは豊島将之で62.2%です。三段リーグは勝率ではなく、半年ごとに18戦戦って、上位の二人だけが四段に上がれる、という厳しい世界ですから、同じリーグに強い棋士がそろうと抜け出すのは難しくなります。14勝4敗の成績でも四段に上がれない場合もあれば、12勝6敗でも四段に昇段出来る場合もあります。実力だけではなく、運不運が微妙に働く世界なのです。上記9人の棋士と聡太少年の、奨励会時代の通算成績を比べたものを右の表11にまとめて示します。表11では、谷川浩司と羽生善治も交えて、12名の成績を比較しました。順位は、勝率を基準としました。参考情報として、現在の年齢、四段に昇段した時に年齢、奨励会を抜けて四段に昇段するまでの経過期間とその順位(短い順)も合わせて掲載しました。①勝率トップは、屋敷伸之。経過期間でも2位で、奨励会では優等生だったと言える。そして、四段になってからの活躍も華々しく、前述の通り、最年少でのタイトル挑戦、最年少でのタイトル奪取という二つの記録を樹立しました。②勝率2位は、羽生善治。三段リーグが始まる前の比較的四段に上がりやすかった時代だったので、経過期間も30ヶ月未満でトップ、史上3人目の中学生プロ棋士となりました。。③勝率3位は、菅井竜也。ただし、経過期間は6位で、12人の真ん中あたりです。④勝率4位は、斎藤慎太郎。しかし経過期間はブービーの11位、これは三段リーグを抜けるのに4年(48ヶ月)かかったのが響いています。⑤勝率5位は、このコラムの主人公である藤井聡太。三段リーグを一期抜けしたので、経過期間も、勝率4位の斎藤慎太郎の半分以下の43ヶ月と短く、全体の3位です(ただし、三段リーグの空白の半年間を入れると49ヶ月なって4位)。⑥意外なのは、史上二人目の中学生プロ棋士「谷川浩司」が、勝率では最下位だった、という事です。経過期間では、藤井聡太と僅差の4位ですが、勝率は低く、効率的に勝ち進んできた、という事が想像されます。⑦また、史上4人目の中学生プロ棋士「渡辺明」も勝率ではビリから3番目と低く、経過期間も63ヶ月で、真ん中よりも若干長い。それでも、中学生でプロ棋士になれたわけだから、巡り合わせが良かった、と言えるでしょう。今回は、藤井聡太の奨励会での成績をまとめました。そして、その成績が、今までの有力プロ棋士と比べてどれくらいのものなのかを、代表的な棋士11人をピックアップして比べてみました。①聡太少年は、10歳 2ヶ月(小学校4年生)で奨励会に入りましたが、これは、他の棋士と比べた場合、早いほうだと言えるでしょう。調べた棋士の中で彼より早かったのは、9歳で奨励会入りした豊島将之だけです。。②奨励会入りしてからも、5級と2級の時に若干手間取りましたが、ほぼ順調に昇級しました。一番悔しかったのは、3級の時に6連敗した事でしょうが、その悔しさをバネに、昇級を遂げていきます。③初段に上がってから、三段リーグ入りするまでの期間も他の棋士と比べるととくに大きな差異はありません。そして、三段リーグを一期(6ヶ月)で抜けて、史上5人目の中学生プロ棋士となり、おおいに世間から注目されるようになります。④聡太少年が世間から注目されるようになった、もう一つの出来事は、詰将棋です。幼い時から、大人顔負けの成績を上げていましたが、小学校6年生の時に、並み居るプロ棋士を抑えて、史上最年少で優勝し、世間をあっと驚かせました。彼は、その後、今年まで4連勝しますが、それも史上初の偉業です。⑤しかし、現在、トップ棋士となった谷川浩司、羽生善治、渡辺明、といった超一流棋士の奨励会時代の成績を見ると、それほど、他を圧倒しているとは思えません。つまり、奨励会時代の成績と、プロ棋士となってからの成績とはあまり関係がない、と言えます。考えてみれば、当然の事であって、プロになって以降、どれだけ成長するかが問題なのであり、プロになった時点での実力ではないからです。要は、伸びしろがどれくらいあるのか、という事です。⑥その伸びしろに影響を与えると思われるのは、プロ棋士になった時(つまり、四段に昇段した時)の年齢です。藤井より前に、中学生でプロ棋士になった4人(加藤一二三を加えて)はいずれも大棋士となっています。この事から、聡太少年の伸びしろは極めて大きいと期待されます。聡太少年が、この後、どのように活躍していったかについては、次回以降、まとめる事とします。1.「神を追いつめた少年」(「将棋世界」(日本将棋連盟)、2017年8月号~2018年4月号、に連載されたドキュメント記事) シェアする
現在の主な市町村 郡数 ※奨励会三段リーグに編入後に退会した者も受験可。 受験級位 【級位・師匠推薦あり】 年齢による受験級位を下記の通りとする。 満15歳以下 6級以上 満16歳以下 5級以上 満17歳以下 4級以上 満18歳以下 3級以上 満19歳 1級 【級位・師匠推薦なし】 6級. 誕生



8 存在した主な城郭 ③奨励会の発足時、年齢制限はありませんでしたが、1968年に「満31歳の誕生日までに四段に昇段できなければ奨励会を退会」 という規定が設けられ、その後、1982年に満26歳に引き下げられました。そして、1994年に次の延長規定が追加されて現在に至っています。 歴史、美術、文学、言葉、文化についての雑学・うんちく・豆知識・トリビアを集めたサイトです。気になった記事や文章を個人のメモとして投稿しています
奨励会を年齢制限で退会し、アマチュアとして夢を追いかけた私はいわば「後手番」の人間。だが「後手」にも先手にない強みがある! 将棋界に風穴を開けたサラリーマン棋士の革命的プロ論。「早咲きの天才」渡辺明竜王との特別対談も収録。 永正 8年(1511)~天文 4年(1535)

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