真 田丸 今川義元

領地経営についても、あの織田信長よりも早く楽市令を布くなど、革新的な一面も見せている。総合的に考えると、徳川家康などと比較すると見劣りするものの、戦国大名としての標準的なスペックは備えていたものと考えてよいのではないだろうか。武将としては一流とは言い難かった氏真であるが、「生き残る」ということに関しては超一流であったようだ。 今川義元亡き後、今川家は完全に滅亡したわけではなく、家督を継いだ氏真は助命され北条を頼った後に徳川家康に庇護され、徳川家高家として生き残り、4男1女の子を残し今川宗家の血筋は明治の23第・今川範叙(いまがわのりのぶ)まで続きました。 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。本サイトはリンク報告不要です。スポンサーリンク の腕前は相当なものであった可能性が高いと思われる。また、和歌にも堪能で蹴鞠の名人でもあり、特に蹴鞠は信長の前で披露して称えられるほどの腕であったという。つまり、氏真は武将としての教育をしっかり受けた人物と言ってよいのではないか。合戦においても、氏真が特別失態を犯したという記録は見当たらない。 ~海道一の弓取り・今川義元の天下への執念!! しかしながら、義元は暗愚どころか名君であったし、氏真にしても言われるほど無能ではなかったことわかってきている。 今川義元――その名を聞き、思わず「ププッ」としてしまう戦国ファンの方もおられるかもしれません。. 狭山北条家は明治維新以降も存続するが、11代藩主北条氏燕(うじよし)が他家から養子をとったため、義元の血脈はここで途切れる。嶺松院は氏真の妹である。1552年に甲相駿三国同盟の一環として、武田義信と結婚したことが、武田家臣駒井政武の『高白斎記』に記されている。後に義信が廃嫡となったことで、駿府に戻されるが、義信との間には一女を儲けたのみで母娘共々出家したため、今川義元の血脈はここで絶えた。私自身、今川義元が優秀な武将だったという話は、結構前から知ってはいた。 1560年に起きた桶狭間の戦い。天下に最も近いと伝わる今川義元を新興勢力だった織田信長が斃した有名な戦いですが、その後、今川家を継いだ今川氏真は大名家としては滅亡し、後北条家を頼りこの関東にまで落ち延びてきます。その居館だった跡地が、現在JR大崎駅の近くJR東日本 東京総合車両センター付近だと伝わります。氏真は今川の跡を継ぐもかつての同盟者だった武田信玄、そしてついには今川家の人質の立場だったはずの徳川家康にも攻撃され駿府の武将としての評価はイマイチの氏真ですが、皮肉なことに今川家を滅ぼした織田信長やまた豊臣秀吉よりも長寿を全うし徳川幕府時代も高家として今川家は存続。氏真の墓地は今川家の菩提寺である、東京杉並区の残念ながらあたりは完全に開発されつくし、遺構はおろか案内板の一つもないので城巡りとしては満足度はゼロ。駿府から遠く離れた東京の地に、桶狭間の後の今川一族が暮らした館跡があるということを想像しながら歩いてみるしかないですね(汗)また同じ大崎駅近くの貴船神社は、鎌倉時代の品川氏の居館跡ともされており、合わせて訪問してみたいスポットです。東京都品川区広町2Copyright © 2010-2018 MARO32 All Rights Reserved. All Rights Reserved, Copyright © sengoku-his.com 2020 無断転載禁止 今川氏真は、 蹴鞠や和歌に傾倒し政務を疎かにした 結果、今川家を滅亡に導いたという、戦国武将としては決して有能ではない印象を持たれることが多い人物です。 なぜ、このような悪い印象を持たれてしまうのでしょうか。 そして、彼らのDNAは、何と現代まで受け継がれているというのだ。今川家の真実とはいかなるものなのであろうか?義元には5人の子がいたが、男子は2人のみであった。そのうちの1人は後に家督を継ぐ嫡男氏真(うじざね)であり、もう1人は次男の一月長得(いちげつ ちょうとく)である。長得は名前からもわかる通り出家してしまったので、養子を取らないという前提であれば、事実上後継者は氏真のみということになる。「海道一の弓取り」と評された義元はまずは、桶狭間の義元の陣は「桶狭間山」に置かれたと『信長公記』にはあり、以前定説であった田楽狭間に陣を置いたという説は否定されている。さらに、織田信長は今川の陣まで真正面から行軍するよう指示していることから、奇襲であったという点も否定されている。義元が討ち取られてしまったのは悪天候(『信長公記』には「石水混じり」とあることから雹であった可能性もある)や、織田軍が午後1時頃という当時としては常識外の時間に、攻撃をしかけたことによる不運によるものという説が浮上しているのである。実際の義元は、隣接する武田信玄やその義元が後継者として選んだのが氏真であるということを考えると、果たして「氏真は暗愚」という評価は妥当なのか疑問を感じるところではある。前述したように、松平定信の随筆『閑なるあまり』や『徳川実記』などでの評価は「柔弱な暗君」というイメージで共通している。いずれにしろ、散々な言われようであるが、史料・文献によっては全く異なった評価が記されていることがわかる。綿谷雪・山田忠史編 『武芸流派大事典』によれば、氏真は塚原卜伝に新当流の剣術を学んだとされ、仙台藩の剣術「今川流」の開祖は氏真ではないかとも言われているという。このことから、少なくとも氏真の剣術

その後、戦国大名にとって生き残ることは、領土拡大に勝るとも劣らず重要なことであるが、氏真はこの点に関しては極めて優秀であったようだ。この辺り、どこかそしてもう1つ氏真には有利な点があった。それは、男子が4人もいたということである。子供の数自体は父義元と同じ5人であるが、義元には男子が2人しかおらずそのうちの1人は出家してしまったことは前述した通りである。氏真には男子が4人いたお陰で、後継者に困らなかったのである。義元以降の今川家の略系図は以下のとおり。さて、まずは氏真の男子の系統を見てみよう。今川範以(のりもち)は氏真の嫡男である。父氏真が駿河を逐われ、小田原の北条氏の元に身を寄せていた1570年に生まれたとされる。その後、一時的に徳川家康の元に身を寄せるが、氏真とともに京都に移り住んでからは、冷泉家や山科家などの公家と親しく交際し、連歌の会などの常連であったという。範以は氏真に似て、和歌や学問に教養人であったようだ。 日本初の歴史戦国ポータルサイト 範以は1607年に京において、38歳の若さで病没する。範以には男子が1人おり、範以の死後は氏真に養育されたという。